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ボクが特にフェアレディについて詳しいと言うのではなく、メモ帳がわりに雑誌やネットで得た情報を誕生から現在に至るまで少しずつUPしてみたいと思います。
■ダットサン・スポーツDC-3(1952年-1954年)この世にフェアレディを生み出す起源となったモデルでクラッシックなデザインは現在にない新鮮さと古き良き時代の日本の活力を感じさせたまま次期モデルS210型系へと発展して行きます。 ダットサン・スポーツ DC-3(1952年-1954年) 1952年1月、発売。
ボク自身未だ見た事の無いモデルなのですが、ダットサン・フェアレディの源流となるモデルで直列4気筒 860ccのサイドバルブのSVエンジン(わずか20馬力)を搭載し車両重量は750kgでFR・3速ミッションの4人乗りでありながら最高時速は80km/hを記録したロードスターながら、前半部のデザインは日産・ダットサントラックやセダンの意匠を受け継いでいて、現在ならハリウッド映画にでも登場しそうなクラッシックなデザインですよね。 イギリスのMG・Tシリーズを一応の目標としていたが、ハンドリングや動力性能では、より旧式のJシリーズにも及ばなかったらしい...
実のところ日本の乗用車の生産台数がまだ4千台に充たない1951年頃、この車の原型は誕生している。それは、スポーツカーに情熱を注いだ若い技術者達が、勤務時間後に手作りで少しづつ仕上げていった車だった。正式な計画のもとに作られた車ではなく、フレーム、エンジン、ミッションなど主要部品はすべて戦前のトラックからの流用であり、これにオープン4シーターのボディを架装したものだったらしい
1954年製造終了で50台の少量生産にとどまったが、現在のフェアレディを生み出すまでの歴史の幕開けとなったモデルで、試作段階のDC-3は、草レースに出場し見事優勝をおた。自動車レース自体が珍しかった当時、それが社内でも話題となり、この車の生産が正式に決定されることとなった。
その結果、試作、改良のすえ、1952年1月DC-3は日本で初めてのスポーツカーとして市販されたモデル(価格は当時の金額にして83万5千円)となった。
デビュー後まもなく、千葉の茂原飛行場で、わが国初の国際スポーツカー・ロードレースが行われた。ここに参加した2台のダットサン・スポーツは、ジャガーXK120、MG・TD、モーリス・マイナーなど欧州の一流スポーツカーに交じって健闘。
69マイルレースで1周(2.3マイル)のラップ2分43秒(時速約80km/h)と言う上位の成績を収めて入賞した。(残念ながら順位の記録は残っていない)
がしかし、これらの経緯を改めて知った今、エンジニア達の情熱、古典的ながらもスポーツカーらしいスタイル、モータースポーツでの活躍・・・DC-3には、すでに生粋のスポーツカーとしての原点があったと言っても決して過言ではないと思います。
そしてZの歴史は次期モデルのダットサン・スポーツ1000(S210型)へと継承されました。
■初代S210型系(S210型系(1959年-1962年) ダットサン・スポーツ1000は1957年11月自動車展示会で発表され1960年1月SPL212 / SPL213型では遂にダットサン・フェアレディ1200としてフェアレディの名を冠した最初の車がこの世に誕生し当初は国内販売も計画されていたらしいです。 1958年10月 東京モーターショーに生産型を出品。ボディーは、当時、新素材として日本でも流行していたFRP製で、4座のオープンモデルとされた。シャーシはダットサンセダン211型のラダーフレームの流用である。エンジンもOHV 988ccのC型で、トラック、セダンと同様であるが、ツーバレル式気化器の装着で34馬力(25.35kW)/6.59kgm(64.7Nm)を発揮、最高速度は115km/hと発表されたのだが、その時点だはまだフェアレディと言う称号は与えられてはいなかった。 そして東京モーターショー翌年の1959年6月遂に生産開始されたが生産台数はわずか20台で、右ハンドル車のみで、ほとんどが60年モデルとして北米でテスト販売された。
この頃、日本の自動車技術は着実に進歩を重ねていたようで1958年には、ブルーバードの前身であるダットサン210がオーストラリア・ラリーに出走。約1万6千キロを走破し1000ccまでのAクラスで優勝している。これによって日本の自動車技術は、初めて世界に認められるものとなった。
フォルクスワーゲン・カルマンギアのようにも見えますが、これがダットサン・スポーツ1000で、早くZ32を復活させてイベント会場でお目に掛りたいですね。
一人でのドライブはこのようなカバーをするのですかね。風の巻き込みの減少効果もあり冬期のドライブの寒さからも少しは逃れられそうです。
まっ!こんなかっこ良い車のステアリング握ってたら寒さなんて忘れてしまうんでしょうけど...
このアングルには何っとも言えない程の哀愁と言うかオウラを纏っているようで当時の車造りに関った人達の『魂』を感じます。
そして遂に1960年1月、S211 のスタイリングを受け継ぎ、ボディのスチール化と走行性能の向上を果たした新しいモデルが 「フェアレディ1200」として発表されフェアレディの名を冠した最初の車は、このSPL212型からフェアレディ伝説は始まったのです^^
■そして遂に1960年1月 「フェアレディ1200」が発表されフェアレディの名を冠した最初の車は、このSPL212型からフェアレディ伝説は始まったのです。
あまりにも有名な話しですが、車名はミュージカル「マイ・フェア・レディ」に由来するもので、当時の日産の社長、川又克二が前年に渡米した際、ブロードウェーでの同ミュージカルの観覧で感銘を受けたことからの命名。ただし、当時の日本語表記は「フェアレデー」であったそうです(笑
この事を知ってまるでボクがDVDをデー・ブイ・デーと言うのと同じでなので妙に親近感を感じてしまいました。
フェアレデーSPL212は、S211に対していくつかの技術的進歩を見せている。シャーシ、エンジンはブルーバード1200からの流用ではあるが、フロントサスペンションがトーションバー式の独立懸架になったことは大きなポイントだろう。当時の技術スタッフが試作を重ね、実用化のチャンスを待っていたトーションバー式サスペンションが、まずこの車で生かされる事になった訳です。スポーツカーはいつの時代にも、最新の技術が駆使される場であり同時に技術者も育て上げる最高の場でもあったんですね。
型式記号はそれぞれ、「S」が「スポーツ」、「P」が「パワーアップ版」、「L」が「レフトハンドドライブ(左ハンドル)」を表す。数字の百の位の「2」は第二世代の意味であるが、この場合はダットサンセダン210型、ダットサントラック220型の派生車であることからそれに揃えたかたちとなっている。十の位は、奇数が乗用、偶数が貨物(トラックシャーシ流用のバスも偶数)で、「1」と「2」が小型の「ダットサン」、「3」、「4」以上が「ニッサン」となる。ダットサンスポーツの場合は「小型乗用」なので「1」となる。一の位は、「0」を基本型とし、改良が入った回数を表しており、SPL212の場合は、2回目のマイナーチェンジモデルということになる。
この212と次の213は北米専売モデルの扱いであり、左ハンドルのみの生産であったが、日本国内でも少数がそのまま販売された。
生産性を考慮し、ボディーは一般的なスチール製にもどされ、より頑丈なダットサントラック221型用シャーシの採用で、ダブルウイッシュボーンと縦置きトーションバースプリングによる独立式フロントサスペンションを得た。エンジンは、ブルーバードにも使われた、1189cc OHVのE型に変更され、ツーバレルキャブレターを装着し、48PS / 8.4Kgmの出力を発揮、フロアシフトの4速トランスミッションを介し、最高速度は132km/hと発表された。
自動車としての洗練度は英国製ライトウエイトスポーツカーに遠く及ばなかったが、これらの改良により、市場での競争力は着実に高まって行き生産台数は288台を記録。
1960年10月 エンジンは改良されたE1型となり出力を60PS / 9.3kgmにアップ。 アメリカの広告での価格は、ブルーバード4ドアセダンの$1,816に対し$1,996となっている。ですから、現在日本に残っている初代フェアレディはきわめて少ないのは当然なんでしょうね。
しかしながら、日本のスポーツカーの歴史の上で、北米大陸を初めて駆けたスポーツカーとしての意義は計り知れないほどに大きい。
やがて62年生産終了し生産台数は217台を記録し2代目S310型系へとバトンを繋いだ。
■バトンを受け取った2代目フェアレディとなる S310型系は高速化を鑑み、小径ホイール、低床フレームの採用で低重心化を図り、エンジンも連続高回転運転を考慮したものに変更され1961年10月 東京モーターショーに「ダットサン・フェアレディ1500」としてデビュー。
シャ-シはやはりダットサン・トラックの流用であるが、前後のサスペンション支持部の間にX型の補強メンバーが追加され、一段と剛性が高められた。
1962年10月 輸出用のDATSUN 1500(SPL310)に加え、日本国内向けモデルのフェアレディ1500(SP310)発表。直列4気筒 G型エンジン(71PS/5000rpm)を搭載。 左向きの後部座席が備わり3人乗りであった。
1963年5月 「第1回日本グランプリ」国内スポーツカーB2クラス(1300~2500cc)にて輸出仕様キャブレターを搭載するフェアレディ1500(田原源一郎がドライブ)が優勝を飾る。
1963年6月 日本GPでの活躍を受け、SUツインキャブを装着し出力が80ps/5600rpmへ向上。
1964年3月 レーシングキット発売。
1964年8月 マイナーチェンジで2シーターに変更。
■フェアレディ1600SP / SPL311型へ
1965年5月 「フェアレディ1600」(SP311型)発売。直列4気筒OHV R型エンジン(1595cc 90ps/6000rpm)を搭載。
4月に発売された「シルビア」とエンジン、トランスミッション、シャシなどを同一とした。
1966年3月 「第4回クラブマンレース」(日本グランプリの前座試合)に直列6気筒DOHC B680X型エンジン(1992cc 190ps/7600rpm)を搭載するフェアレディSが参戦し、ポールポジションを獲得したがリタイア(優勝は同じく初参戦のトヨタ・RTX=後の1600GT)。また、GT IIクラスではフェアレディ1600が優勝を飾る。
1966年11月 「第2回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GT-I~Vクラスにて「フェアレディ1600」が総合6位、クラス優勝を飾る。
■フェアレディ2000SR / SRL311型
1967年3月 「フェアレディ1600」に追加されるかたちで「フェアレディ2000」(SR311型)発売。
直列4気筒SOHC U20型エンジン(1982cc 145ps/6000rpm)と、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載、発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなった。
「フェアレディ」の完成形と後に賞賛されるモデルとなる。ちなみにテレビコマーシャルは杉山登志らが制作し、数々の賞を受賞した。
・1967年5月 「第4回日本グランプリ」GTクラスにてフェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾る。
・1967年11月 ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドやヘッドレストの追加、シートベルトの3点化、ドアハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の変更で北米の安全基準(Motor Vehicle Safty Standard)に準拠。趣味の上では、3月から10月までのモデルは「ロースクリーン」、11月以降のものは「ハイスクリーン」と呼ばれ、区別されている。
・1968年1月 第37回モンテカルロ・ラリーに、カーナンバー66(Hannu Mikkola / Anssi Jarvi組)と、同じく70(Jorma Lusenius / Vihervaara組)の2台の「ロースクリーン」タイプのワークスSPL311で初出場。カーバッジはDATSUN 2000。FR車は圧倒的に不利と言われるモンテ・カルロで、カーナンバー66のミッコラ / ジャルビ組が総合9位、グループ3クラス優勝を飾る。
・1968年5月 「第5回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が1-2-3フィニッシュを飾る。
・1968年7月 SP / SR共に、ソフトトップを持たない、ハードトップモデルを追加。
・1968年8月 「第3回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GTS-Ⅱクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
・1968年11月 ステアリングギアボックス、マフラー、ワイパー、ライセンスプレートランプ、テールランプなどを変更。
・1969年1月 第38回モンテカルロ・ラリーに出場。カーナンバー79(Raimo Kossila / Pertti Mannonen組)と、同44(Risto Virtapuro / Charles Lindholm組)の二台の「ハイスクリーン」タイプのSPL311でエントリー。
・1969年10月 「第6回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
★初代1969年遂に後継車種「S30型系フェアレディZ」を発表されました!^^
1969年、先代モデルであるオープンボディの「フェアレディ」に代わって登場した美しいファストバック・ボディに身を包んだ”フェアレディZ”S30は Zがつくフェアレディの最初のモデルでモノコックのテール・ゲート付き2シーター・ボディに、直列6気筒SOHC1998ccエンジンを搭載し、なんと!最高速度195km/hを誇ったんですよ。
ヨーロッパ製の高級GTに比肩するスペックと魅力あるスタイルを兼ね備えながら、格段に廉価であったことで、北米市場を中心に大ヒットし、長期生産されて「DATSUN」「Z-car」の名を確固たる物とした、記念碑的モデルである。日産の世界的なイメージリーダーとして、9年間もの長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立!さすが!フェアレディ~♪
一つの頂点を極めたオープン・スポーツであったフェアレディ(SR311/SP311型)とは、イメージをがらりと変えるクローズド・ボディの採用は、騒音、気密、居住性だけでなく、軽量化を図るための剛性確保にも必須の条件であった。S30型の開発は1966年に始められている。高性能セダンや、スポーティーな車を含めた市場が伸びつつあったことに加え、全国的な高速道路網の整備・発達により、スポーツカーを受け入れる土壌が日本にも備わってきたことが、その背景としてあるのでしょうね!元気だった頃の日本の象徴のような話です!
2シーターのロングノーズ/ファストバックのクーペ型ボディを持つS30型は、ダイナミックなスタイリングに、高い居住性、実用性を備え、グランド・ツアラーを指向しつつあった70年代に喝采を持って、受け入れられ同時に発表されたフェアレディZ432・PS30型は、S20型直列6気筒DOHC1989ccエンジンを搭載した高性能GTであった。4バルブ、3キャブレター、2カム・シャフトから名付けられたZ432は、当時のスポーツカー愛好家の垂涎の的であった...と言うか今でもボクは垂涎です^^
1971年には対米輸出用であったフェアレディ240Z・HS30型がバリエーションに加えられた。240ZGと呼ばれたHS30H型は、グランド・ノーズにオーバー・フェンダーを身に付け、直列6気筒SOHC2393ccエンジンで、な!な!な!なんと最高速210km/hを誇ったらしいのですが、ボクには未だ未体験の速度域です^^;(これからも...)
誰もが一度は目にしたころがあるZのラリー仕様!1971年4月12日、東アフリカで行われた第19回サファリ・ラリーに240Zがエントリー。ゼッケン11、ハーマン/シェラー組のDATSUN240Zが総合優勝、さらに総合2位にも、同じくメッタ/ディティ組が入り、クラス優勝、メーカーチーム優勝も獲得、見事、三冠に輝いた。
当時、スポーツカーは高価で運転もメンテナンスも難しく、一部愛好家のためだけの存在であった。フェアレディZ・S30型はこうした従来の概念を塗り替え、幅広い人々にスポーツカーに乗る喜びを提供した初めてのスポーツカーとして、世界のスポーツカー史に残る一台である。このことは、この車が次のS130型へ変わるまで、8年以上の長きに渡って生産され続けたことからも裏付けられるんでしょうね!
■ 2代目 S130型(1978-1983年)1978年8月、S130型にフルモデルチェンジ。
先代のロングノーズ・ショートデッキスタイルを継承しながら、2代目はややワイドサイズとなって登場。2000ccの「200Z」と2800ccの「280Z」の2つのL型・直列6気筒エンジンを設定していた。先代を正常進化させたスタイルとなる。
1980年、国産車で初めて「Tバールーフ」仕様車を追加。Z32までこの形態が続き、Z33以降は「Zロードスター」として継承された。このモデルを改造、ガス圧開閉式セミガルウィングウィンドウを装備したのがテレビドラマ『西部警察』に登場する「スーパーZ」である。
1981年10月、マイナーチェンジ。ボンネットフードにNACAダクトを追加。第24回東京モーターショーにアメリカ合衆国で開催されていたレースSCCAに参戦していた「DATSUN ZX TURBO V-8」を参考出品。FRP製のボディにプレジデント用のV8エンジンをベースにターボを組合わせたレーシングカーである。
1982年、アメリカでL28ET型エンジンを搭載した2800ccターボモデルが誕生。初代に引き続き、S130もアメリカでは大ヒットとなり、1年足らずで生産台数10万台を突破。
1982年10月、歴代フェアレディZ初のL20ET型2000ccターボエンジン搭載モデル「200Z-T」が追加。国産車初の60%扁平タイヤ(215/60R15)装着車だった。
1983年、初代からの累計台数100万台を達成。
と華やかな経歴の持ち主でもあるが国内では昭和53年度排ガス規制により本来発揮できる実力を出し切れずにいた悲劇のヒロイン的にも思えるのはボクだけでしょうか...
だからこそ国内のチューナー達の熱い情熱によって最強のL型エンジンを追求され続けられてきたのでしょう。
130Zはボクの友人や先輩なども乗っていた思い出深いZですね。
■3代目 Z31型(1983-1989年)、ロングノーズ・ショートデッキというZのコンセプトを引き継ぎながら、空力性能を重視して、エクステリアをシェイプアップした3代目が登場。
エンジンは直列6気筒のL型から新世代V型6気筒エンジンであるSOHCターボのVG20ET(2L)とVG30ET(3L)になり、全グレードにV6エンジンを搭載した(後に再度直列6気筒モデルが設定される)。中でもVG30ETは当時としては大パワーを誇り、トヨタ・スープラに搭載される7M-GTEUが出るまではトップクラスの出力を誇り、空力に優れた欧州向けモデルでは、最高速度が250km/hに届いた。
外観では、消灯時にもレンズの一部が露出する「パラレルライズアップ」ヘッドランプの採用が特徴となった。通常の軸回転式リトラクタブル・ヘッドランプとは異なり、ランプが上下に平行移動する構造をもったものである。ボディの一部を削ってのヘッドランプの装備という従来のデザインを踏襲するためであるが、別体のパッシングランプを省略するためという実用上の意味合いもあった。因みにこの当時の米国ではヘッドランプに連邦自動車安全基準に準じない異形レンズの使用を認めておらず、北米輸出仕様では連邦自動車安全基準規格の角型ヘッドランプにドライビングランプを組み合わせた状態で対応した。
一方でライバルのマツダRX-7は、1985年に2代目のFC3S型が登場。排気量を1.3Lに拡大して高出力化した「13B」「13Bターボ」モデルが北米市場に投入され、高性能と低価格を武器に、ポルシェ944およびZとの戦いに終止符を打った。
モデル発表時のCMは、トンプソン・ツインズの"Love On Your Side"に乗せて、宙に浮いたVGエンジンの隊列と共に300ZXが登場し、長きに渡った直6L型時代から新世代V型エンジンへの転換を印象付るものであった。
1983年、日産自動車創立50周年を記念した「アニバーサリー」を発売。デジタルメーターやブラックの本革内装、リアオーバーフェンダー、専用アロイホイール、左カウルの記念オーナメントなどを特徴とする。
日本国内では、久々の直列6気筒エンジンとなる、DOHCセラミックターボRB20DETを搭載したモデルが追加設定された。このエンジンはもともとR31型系 スカイライン用として開発されたもので、インタークーラーが上置き形に変更されたため、ボンネット中央に設けられた大型エアスクープが外観上の特徴となった。ノーマルルーフの「200ZR-I」とTバールーフの「200ZR-II」の2種類があった。
1986年、日産の北米でのデザイン拠点である日産デザインインターナショナル(NDI)[3]が提案したエクステリアデザインを採用し、3Lモデルはキャビン部(含むリアゲート)と左右ドア以外のパネルを全て意匠変更するという大幅なマイナーチェンジを施される。北米輸出仕様と同様のワイドフレアーフェンダーの3ナンバー専用ボディを与えられた。2.0 Lモデルについては前後のスキンチェンジのみでフロントとリアフェンダーは変わっていない。
エンジンは2.0LモデルのVG20ETが廃止されRB20DETのみとなり、3.0Lモデルは前期型からVG30ETを継続する「300ZX」に加え、VG30型のヘッドをDOHC化した新開発のVG30DEとゲトラグ社製5速MTが組み合わされた「300ZR」が追加された。この「ZR」は締め上げられた足回りと、Z31型系で唯一の自然吸気エンジンなどから、古典的でスパルタンな味わいを持つマニアックなモデルとなった。なお、このマイナーチェンジで、日本仕様の「300ZX」はAT専用となった。
■そして1989年7月には、フェアレディZの4代目「Z32」型が登場(1989-2000年)。
スタイル、パフォーマンスを始めとして、完璧なスーパースポーツカーを目指した4代目が登場。バブル景気を挟み、その後の日産の経営悪化のため10年以上という長期に渡り生産され日本経済の光と影の中をまっしぐらに駆けた最も印象深いボクの大好きなZです。
2シーターおよび2by2と2つのシャシー、ボディがあり、それぞれホイールベースも異なる為、シャシー別に設計、製造されているのがこれまでフェアレディZの特徴だが、従来モデルに比較してZ32型は2シーターと2by2の外観的差異が最も判りにくいモデルである。ルーフには2代目(S130型Z)からの伝統「Tバールーフ」も一部モデルに引き継がれた。
搭載される2種類のエンジンは共にV6・3000ccで、自然吸気のVG30DE型(230ps)と新開発・ツインターボチャージャー搭載のVG30DETT型。ツインターボは国内で初めて最大出力280PSに達したモデル。自主規制値の280PSはここから生まれた。
イグニッションキーの材質はチタン、車載ジャッキはアルミニウム製等、バブル景気に沸く当時の日産を感じる事が出来る。
3代目のリトラクタブル・ヘッドライトから、再び固定式ヘッドライトに戻っている。これはカナダやアメリカ合衆国の一部の州において、昼間においてもヘッドライト点灯が義務づけになった事への対処である。ボディの一部を削ってライトを搭載するというデザインを踏襲しているが、透明なカバーによってボディは平坦を保っている。余談だが、ランボルギーニ・ディアブロのリトラクタブルヘッドライトは、Z32のヘッドライトとサイズ的に交換が可能であり、同じく昼間においてもヘッドライト点灯が義務づけられた国・地域において、ユーザーによる改造が行われた。それを見たランボルギーニのトップが、これを正式に採用。後期ディアブロではZ32のものが正式に使われた。
1992年8月、フルオープンモデルとなる「コンバーチブル」を追加。シートベルトの位置がドアよりボディに変更、エアバッグオプション、助手席パワーシートオプション等。
1993年8月、リアウイングなどを小変更。
1994年10月、マイナーチェンジ。運転席SRSエアバッグを全車標準装備としたほか、2シーター、2by2、コンバーチブルそれぞれに「バージョンS」追加。リアスポイラーおよび専用シートを装備する。また、2by2 Tバールーフには「バージョンSレカロ」を設定。「バージョンS」をベースにBBS製鍛造アルミホイール、レカロ製シート、ミラーコートTバールーフ、電子制御アクティブサウンドシステムを装備する。
1997年1月、バージョンR追加、新ボディ色パープル追加。1998年10月、フロントバンパー、リアウィングなどを変更。
2000年9月、製造終了。2002年7月の5代目(Z33型)発売までは一時的に絶版車種となった。
ライバルであったマツダRX-7も1992年に3代目の「FD3S」型を登場させるが、2002年8月をもって生産を終了した。ポルシェは944を1991年にいち早く生産を終了させて、911系だけのラインアップとなり、高価格なラグジュアリースポーツカーとしての道を歩んでいく。
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■ダットサン・スポーツDC-3(1952年-1954年)この世にフェアレディを生み出す起源となったモデルでクラッシックなデザインは現在にない新鮮さと古き良き時代の日本の活力を感じさせたまま次期モデルS210型系へと発展して行きます。 ダットサン・スポーツ DC-3(1952年-1954年) 1952年1月、発売。
ボク自身未だ見た事の無いモデルなのですが、ダットサン・フェアレディの源流となるモデルで直列4気筒 860ccのサイドバルブのSVエンジン(わずか20馬力)を搭載し車両重量は750kgでFR・3速ミッションの4人乗りでありながら最高時速は80km/hを記録したロードスターながら、前半部のデザインは日産・ダットサントラックやセダンの意匠を受け継いでいて、現在ならハリウッド映画にでも登場しそうなクラッシックなデザインですよね。 イギリスのMG・Tシリーズを一応の目標としていたが、ハンドリングや動力性能では、より旧式のJシリーズにも及ばなかったらしい...
実のところ日本の乗用車の生産台数がまだ4千台に充たない1951年頃、この車の原型は誕生している。それは、スポーツカーに情熱を注いだ若い技術者達が、勤務時間後に手作りで少しづつ仕上げていった車だった。正式な計画のもとに作られた車ではなく、フレーム、エンジン、ミッションなど主要部品はすべて戦前のトラックからの流用であり、これにオープン4シーターのボディを架装したものだったらしい
1954年製造終了で50台の少量生産にとどまったが、現在のフェアレディを生み出すまでの歴史の幕開けとなったモデルで、試作段階のDC-3は、草レースに出場し見事優勝をおた。自動車レース自体が珍しかった当時、それが社内でも話題となり、この車の生産が正式に決定されることとなった。
その結果、試作、改良のすえ、1952年1月DC-3は日本で初めてのスポーツカーとして市販されたモデル(価格は当時の金額にして83万5千円)となった。
デビュー後まもなく、千葉の茂原飛行場で、わが国初の国際スポーツカー・ロードレースが行われた。ここに参加した2台のダットサン・スポーツは、ジャガーXK120、MG・TD、モーリス・マイナーなど欧州の一流スポーツカーに交じって健闘。
69マイルレースで1周(2.3マイル)のラップ2分43秒(時速約80km/h)と言う上位の成績を収めて入賞した。(残念ながら順位の記録は残っていない)
がしかし、これらの経緯を改めて知った今、エンジニア達の情熱、古典的ながらもスポーツカーらしいスタイル、モータースポーツでの活躍・・・DC-3には、すでに生粋のスポーツカーとしての原点があったと言っても決して過言ではないと思います。
そしてZの歴史は次期モデルのダットサン・スポーツ1000(S210型)へと継承されました。
■初代S210型系(S210型系(1959年-1962年) ダットサン・スポーツ1000は1957年11月自動車展示会で発表され1960年1月SPL212 / SPL213型では遂にダットサン・フェアレディ1200としてフェアレディの名を冠した最初の車がこの世に誕生し当初は国内販売も計画されていたらしいです。 1958年10月 東京モーターショーに生産型を出品。ボディーは、当時、新素材として日本でも流行していたFRP製で、4座のオープンモデルとされた。シャーシはダットサンセダン211型のラダーフレームの流用である。エンジンもOHV 988ccのC型で、トラック、セダンと同様であるが、ツーバレル式気化器の装着で34馬力(25.35kW)/6.59kgm(64.7Nm)を発揮、最高速度は115km/hと発表されたのだが、その時点だはまだフェアレディと言う称号は与えられてはいなかった。 そして東京モーターショー翌年の1959年6月遂に生産開始されたが生産台数はわずか20台で、右ハンドル車のみで、ほとんどが60年モデルとして北米でテスト販売された。
この頃、日本の自動車技術は着実に進歩を重ねていたようで1958年には、ブルーバードの前身であるダットサン210がオーストラリア・ラリーに出走。約1万6千キロを走破し1000ccまでのAクラスで優勝している。これによって日本の自動車技術は、初めて世界に認められるものとなった。
フォルクスワーゲン・カルマンギアのようにも見えますが、これがダットサン・スポーツ1000で、早くZ32を復活させてイベント会場でお目に掛りたいですね。
一人でのドライブはこのようなカバーをするのですかね。風の巻き込みの減少効果もあり冬期のドライブの寒さからも少しは逃れられそうです。
まっ!こんなかっこ良い車のステアリング握ってたら寒さなんて忘れてしまうんでしょうけど...
このアングルには何っとも言えない程の哀愁と言うかオウラを纏っているようで当時の車造りに関った人達の『魂』を感じます。
そして遂に1960年1月、S211 のスタイリングを受け継ぎ、ボディのスチール化と走行性能の向上を果たした新しいモデルが 「フェアレディ1200」として発表されフェアレディの名を冠した最初の車は、このSPL212型からフェアレディ伝説は始まったのです^^
■そして遂に1960年1月 「フェアレディ1200」が発表されフェアレディの名を冠した最初の車は、このSPL212型からフェアレディ伝説は始まったのです。
あまりにも有名な話しですが、車名はミュージカル「マイ・フェア・レディ」に由来するもので、当時の日産の社長、川又克二が前年に渡米した際、ブロードウェーでの同ミュージカルの観覧で感銘を受けたことからの命名。ただし、当時の日本語表記は「フェアレデー」であったそうです(笑
この事を知ってまるでボクがDVDをデー・ブイ・デーと言うのと同じでなので妙に親近感を感じてしまいました。
フェアレデーSPL212は、S211に対していくつかの技術的進歩を見せている。シャーシ、エンジンはブルーバード1200からの流用ではあるが、フロントサスペンションがトーションバー式の独立懸架になったことは大きなポイントだろう。当時の技術スタッフが試作を重ね、実用化のチャンスを待っていたトーションバー式サスペンションが、まずこの車で生かされる事になった訳です。スポーツカーはいつの時代にも、最新の技術が駆使される場であり同時に技術者も育て上げる最高の場でもあったんですね。
型式記号はそれぞれ、「S」が「スポーツ」、「P」が「パワーアップ版」、「L」が「レフトハンドドライブ(左ハンドル)」を表す。数字の百の位の「2」は第二世代の意味であるが、この場合はダットサンセダン210型、ダットサントラック220型の派生車であることからそれに揃えたかたちとなっている。十の位は、奇数が乗用、偶数が貨物(トラックシャーシ流用のバスも偶数)で、「1」と「2」が小型の「ダットサン」、「3」、「4」以上が「ニッサン」となる。ダットサンスポーツの場合は「小型乗用」なので「1」となる。一の位は、「0」を基本型とし、改良が入った回数を表しており、SPL212の場合は、2回目のマイナーチェンジモデルということになる。
この212と次の213は北米専売モデルの扱いであり、左ハンドルのみの生産であったが、日本国内でも少数がそのまま販売された。
生産性を考慮し、ボディーは一般的なスチール製にもどされ、より頑丈なダットサントラック221型用シャーシの採用で、ダブルウイッシュボーンと縦置きトーションバースプリングによる独立式フロントサスペンションを得た。エンジンは、ブルーバードにも使われた、1189cc OHVのE型に変更され、ツーバレルキャブレターを装着し、48PS / 8.4Kgmの出力を発揮、フロアシフトの4速トランスミッションを介し、最高速度は132km/hと発表された。
自動車としての洗練度は英国製ライトウエイトスポーツカーに遠く及ばなかったが、これらの改良により、市場での競争力は着実に高まって行き生産台数は288台を記録。
1960年10月 エンジンは改良されたE1型となり出力を60PS / 9.3kgmにアップ。 アメリカの広告での価格は、ブルーバード4ドアセダンの$1,816に対し$1,996となっている。ですから、現在日本に残っている初代フェアレディはきわめて少ないのは当然なんでしょうね。
しかしながら、日本のスポーツカーの歴史の上で、北米大陸を初めて駆けたスポーツカーとしての意義は計り知れないほどに大きい。
やがて62年生産終了し生産台数は217台を記録し2代目S310型系へとバトンを繋いだ。
■バトンを受け取った2代目フェアレディとなる S310型系は高速化を鑑み、小径ホイール、低床フレームの採用で低重心化を図り、エンジンも連続高回転運転を考慮したものに変更され1961年10月 東京モーターショーに「ダットサン・フェアレディ1500」としてデビュー。
シャ-シはやはりダットサン・トラックの流用であるが、前後のサスペンション支持部の間にX型の補強メンバーが追加され、一段と剛性が高められた。
1962年10月 輸出用のDATSUN 1500(SPL310)に加え、日本国内向けモデルのフェアレディ1500(SP310)発表。直列4気筒 G型エンジン(71PS/5000rpm)を搭載。 左向きの後部座席が備わり3人乗りであった。
1963年5月 「第1回日本グランプリ」国内スポーツカーB2クラス(1300~2500cc)にて輸出仕様キャブレターを搭載するフェアレディ1500(田原源一郎がドライブ)が優勝を飾る。
1963年6月 日本GPでの活躍を受け、SUツインキャブを装着し出力が80ps/5600rpmへ向上。
1964年3月 レーシングキット発売。
1964年8月 マイナーチェンジで2シーターに変更。
■フェアレディ1600SP / SPL311型へ
1965年5月 「フェアレディ1600」(SP311型)発売。直列4気筒OHV R型エンジン(1595cc 90ps/6000rpm)を搭載。
4月に発売された「シルビア」とエンジン、トランスミッション、シャシなどを同一とした。
1966年3月 「第4回クラブマンレース」(日本グランプリの前座試合)に直列6気筒DOHC B680X型エンジン(1992cc 190ps/7600rpm)を搭載するフェアレディSが参戦し、ポールポジションを獲得したがリタイア(優勝は同じく初参戦のトヨタ・RTX=後の1600GT)。また、GT IIクラスではフェアレディ1600が優勝を飾る。
1966年11月 「第2回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GT-I~Vクラスにて「フェアレディ1600」が総合6位、クラス優勝を飾る。
■フェアレディ2000SR / SRL311型
1967年3月 「フェアレディ1600」に追加されるかたちで「フェアレディ2000」(SR311型)発売。
直列4気筒SOHC U20型エンジン(1982cc 145ps/6000rpm)と、ポルシェタイプシンクロを持った5速トランスミッションを搭載、発表された最高速度は205km/hであり、国産初の200km/hオーバーカーとなった。
「フェアレディ」の完成形と後に賞賛されるモデルとなる。ちなみにテレビコマーシャルは杉山登志らが制作し、数々の賞を受賞した。
・1967年5月 「第4回日本グランプリ」GTクラスにてフェアレディ2000が1-2-3フィニッシュを飾る。
・1967年11月 ウインドシールドスクリーンを高くし、日本車初のコラプシブルステアリングシャフトの採用、ダッシュパッドやヘッドレストの追加、シートベルトの3点化、ドアハンドル、スイッチ、リアビューミラーなど突起物の変更で北米の安全基準(Motor Vehicle Safty Standard)に準拠。趣味の上では、3月から10月までのモデルは「ロースクリーン」、11月以降のものは「ハイスクリーン」と呼ばれ、区別されている。
・1968年1月 第37回モンテカルロ・ラリーに、カーナンバー66(Hannu Mikkola / Anssi Jarvi組)と、同じく70(Jorma Lusenius / Vihervaara組)の2台の「ロースクリーン」タイプのワークスSPL311で初出場。カーバッジはDATSUN 2000。FR車は圧倒的に不利と言われるモンテ・カルロで、カーナンバー66のミッコラ / ジャルビ組が総合9位、グループ3クラス優勝を飾る。
・1968年5月 「第5回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が1-2-3フィニッシュを飾る。
・1968年7月 SP / SR共に、ソフトトップを持たない、ハードトップモデルを追加。
・1968年8月 「第3回富士ツーリスト・トロフィー・レース」GTS-Ⅱクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
・1968年11月 ステアリングギアボックス、マフラー、ワイパー、ライセンスプレートランプ、テールランプなどを変更。
・1969年1月 第38回モンテカルロ・ラリーに出場。カーナンバー79(Raimo Kossila / Pertti Mannonen組)と、同44(Risto Virtapuro / Charles Lindholm組)の二台の「ハイスクリーン」タイプのSPL311でエントリー。
・1969年10月 「第6回日本グランプリ」GTクラスにて「フェアレディ2000」が優勝を飾る。
★初代1969年遂に後継車種「S30型系フェアレディZ」を発表されました!^^
1969年、先代モデルであるオープンボディの「フェアレディ」に代わって登場した美しいファストバック・ボディに身を包んだ”フェアレディZ”S30は Zがつくフェアレディの最初のモデルでモノコックのテール・ゲート付き2シーター・ボディに、直列6気筒SOHC1998ccエンジンを搭載し、なんと!最高速度195km/hを誇ったんですよ。
ヨーロッパ製の高級GTに比肩するスペックと魅力あるスタイルを兼ね備えながら、格段に廉価であったことで、北米市場を中心に大ヒットし、長期生産されて「DATSUN」「Z-car」の名を確固たる物とした、記念碑的モデルである。日産の世界的なイメージリーダーとして、9年間もの長期に渡って生産され、世界総販売台数55万台という、当時のスポーツカーとしては空前の記録を樹立!さすが!フェアレディ~♪
一つの頂点を極めたオープン・スポーツであったフェアレディ(SR311/SP311型)とは、イメージをがらりと変えるクローズド・ボディの採用は、騒音、気密、居住性だけでなく、軽量化を図るための剛性確保にも必須の条件であった。S30型の開発は1966年に始められている。高性能セダンや、スポーティーな車を含めた市場が伸びつつあったことに加え、全国的な高速道路網の整備・発達により、スポーツカーを受け入れる土壌が日本にも備わってきたことが、その背景としてあるのでしょうね!元気だった頃の日本の象徴のような話です!
2シーターのロングノーズ/ファストバックのクーペ型ボディを持つS30型は、ダイナミックなスタイリングに、高い居住性、実用性を備え、グランド・ツアラーを指向しつつあった70年代に喝采を持って、受け入れられ同時に発表されたフェアレディZ432・PS30型は、S20型直列6気筒DOHC1989ccエンジンを搭載した高性能GTであった。4バルブ、3キャブレター、2カム・シャフトから名付けられたZ432は、当時のスポーツカー愛好家の垂涎の的であった...と言うか今でもボクは垂涎です^^
1971年には対米輸出用であったフェアレディ240Z・HS30型がバリエーションに加えられた。240ZGと呼ばれたHS30H型は、グランド・ノーズにオーバー・フェンダーを身に付け、直列6気筒SOHC2393ccエンジンで、な!な!な!なんと最高速210km/hを誇ったらしいのですが、ボクには未だ未体験の速度域です^^;(これからも...)
誰もが一度は目にしたころがあるZのラリー仕様!1971年4月12日、東アフリカで行われた第19回サファリ・ラリーに240Zがエントリー。ゼッケン11、ハーマン/シェラー組のDATSUN240Zが総合優勝、さらに総合2位にも、同じくメッタ/ディティ組が入り、クラス優勝、メーカーチーム優勝も獲得、見事、三冠に輝いた。
当時、スポーツカーは高価で運転もメンテナンスも難しく、一部愛好家のためだけの存在であった。フェアレディZ・S30型はこうした従来の概念を塗り替え、幅広い人々にスポーツカーに乗る喜びを提供した初めてのスポーツカーとして、世界のスポーツカー史に残る一台である。このことは、この車が次のS130型へ変わるまで、8年以上の長きに渡って生産され続けたことからも裏付けられるんでしょうね!
■ 2代目 S130型(1978-1983年)1978年8月、S130型にフルモデルチェンジ。
先代のロングノーズ・ショートデッキスタイルを継承しながら、2代目はややワイドサイズとなって登場。2000ccの「200Z」と2800ccの「280Z」の2つのL型・直列6気筒エンジンを設定していた。先代を正常進化させたスタイルとなる。
1980年、国産車で初めて「Tバールーフ」仕様車を追加。Z32までこの形態が続き、Z33以降は「Zロードスター」として継承された。このモデルを改造、ガス圧開閉式セミガルウィングウィンドウを装備したのがテレビドラマ『西部警察』に登場する「スーパーZ」である。
1981年10月、マイナーチェンジ。ボンネットフードにNACAダクトを追加。第24回東京モーターショーにアメリカ合衆国で開催されていたレースSCCAに参戦していた「DATSUN ZX TURBO V-8」を参考出品。FRP製のボディにプレジデント用のV8エンジンをベースにターボを組合わせたレーシングカーである。
1982年、アメリカでL28ET型エンジンを搭載した2800ccターボモデルが誕生。初代に引き続き、S130もアメリカでは大ヒットとなり、1年足らずで生産台数10万台を突破。
1982年10月、歴代フェアレディZ初のL20ET型2000ccターボエンジン搭載モデル「200Z-T」が追加。国産車初の60%扁平タイヤ(215/60R15)装着車だった。
1983年、初代からの累計台数100万台を達成。
と華やかな経歴の持ち主でもあるが国内では昭和53年度排ガス規制により本来発揮できる実力を出し切れずにいた悲劇のヒロイン的にも思えるのはボクだけでしょうか...
だからこそ国内のチューナー達の熱い情熱によって最強のL型エンジンを追求され続けられてきたのでしょう。
130Zはボクの友人や先輩なども乗っていた思い出深いZですね。
■3代目 Z31型(1983-1989年)、ロングノーズ・ショートデッキというZのコンセプトを引き継ぎながら、空力性能を重視して、エクステリアをシェイプアップした3代目が登場。
エンジンは直列6気筒のL型から新世代V型6気筒エンジンであるSOHCターボのVG20ET(2L)とVG30ET(3L)になり、全グレードにV6エンジンを搭載した(後に再度直列6気筒モデルが設定される)。中でもVG30ETは当時としては大パワーを誇り、トヨタ・スープラに搭載される7M-GTEUが出るまではトップクラスの出力を誇り、空力に優れた欧州向けモデルでは、最高速度が250km/hに届いた。
外観では、消灯時にもレンズの一部が露出する「パラレルライズアップ」ヘッドランプの採用が特徴となった。通常の軸回転式リトラクタブル・ヘッドランプとは異なり、ランプが上下に平行移動する構造をもったものである。ボディの一部を削ってのヘッドランプの装備という従来のデザインを踏襲するためであるが、別体のパッシングランプを省略するためという実用上の意味合いもあった。因みにこの当時の米国ではヘッドランプに連邦自動車安全基準に準じない異形レンズの使用を認めておらず、北米輸出仕様では連邦自動車安全基準規格の角型ヘッドランプにドライビングランプを組み合わせた状態で対応した。
一方でライバルのマツダRX-7は、1985年に2代目のFC3S型が登場。排気量を1.3Lに拡大して高出力化した「13B」「13Bターボ」モデルが北米市場に投入され、高性能と低価格を武器に、ポルシェ944およびZとの戦いに終止符を打った。
モデル発表時のCMは、トンプソン・ツインズの"Love On Your Side"に乗せて、宙に浮いたVGエンジンの隊列と共に300ZXが登場し、長きに渡った直6L型時代から新世代V型エンジンへの転換を印象付るものであった。
1983年、日産自動車創立50周年を記念した「アニバーサリー」を発売。デジタルメーターやブラックの本革内装、リアオーバーフェンダー、専用アロイホイール、左カウルの記念オーナメントなどを特徴とする。
日本国内では、久々の直列6気筒エンジンとなる、DOHCセラミックターボRB20DETを搭載したモデルが追加設定された。このエンジンはもともとR31型系 スカイライン用として開発されたもので、インタークーラーが上置き形に変更されたため、ボンネット中央に設けられた大型エアスクープが外観上の特徴となった。ノーマルルーフの「200ZR-I」とTバールーフの「200ZR-II」の2種類があった。
1986年、日産の北米でのデザイン拠点である日産デザインインターナショナル(NDI)[3]が提案したエクステリアデザインを採用し、3Lモデルはキャビン部(含むリアゲート)と左右ドア以外のパネルを全て意匠変更するという大幅なマイナーチェンジを施される。北米輸出仕様と同様のワイドフレアーフェンダーの3ナンバー専用ボディを与えられた。2.0 Lモデルについては前後のスキンチェンジのみでフロントとリアフェンダーは変わっていない。
エンジンは2.0LモデルのVG20ETが廃止されRB20DETのみとなり、3.0Lモデルは前期型からVG30ETを継続する「300ZX」に加え、VG30型のヘッドをDOHC化した新開発のVG30DEとゲトラグ社製5速MTが組み合わされた「300ZR」が追加された。この「ZR」は締め上げられた足回りと、Z31型系で唯一の自然吸気エンジンなどから、古典的でスパルタンな味わいを持つマニアックなモデルとなった。なお、このマイナーチェンジで、日本仕様の「300ZX」はAT専用となった。
■そして1989年7月には、フェアレディZの4代目「Z32」型が登場(1989-2000年)。
スタイル、パフォーマンスを始めとして、完璧なスーパースポーツカーを目指した4代目が登場。バブル景気を挟み、その後の日産の経営悪化のため10年以上という長期に渡り生産され日本経済の光と影の中をまっしぐらに駆けた最も印象深いボクの大好きなZです。
2シーターおよび2by2と2つのシャシー、ボディがあり、それぞれホイールベースも異なる為、シャシー別に設計、製造されているのがこれまでフェアレディZの特徴だが、従来モデルに比較してZ32型は2シーターと2by2の外観的差異が最も判りにくいモデルである。ルーフには2代目(S130型Z)からの伝統「Tバールーフ」も一部モデルに引き継がれた。
搭載される2種類のエンジンは共にV6・3000ccで、自然吸気のVG30DE型(230ps)と新開発・ツインターボチャージャー搭載のVG30DETT型。ツインターボは国内で初めて最大出力280PSに達したモデル。自主規制値の280PSはここから生まれた。
イグニッションキーの材質はチタン、車載ジャッキはアルミニウム製等、バブル景気に沸く当時の日産を感じる事が出来る。
3代目のリトラクタブル・ヘッドライトから、再び固定式ヘッドライトに戻っている。これはカナダやアメリカ合衆国の一部の州において、昼間においてもヘッドライト点灯が義務づけになった事への対処である。ボディの一部を削ってライトを搭載するというデザインを踏襲しているが、透明なカバーによってボディは平坦を保っている。余談だが、ランボルギーニ・ディアブロのリトラクタブルヘッドライトは、Z32のヘッドライトとサイズ的に交換が可能であり、同じく昼間においてもヘッドライト点灯が義務づけられた国・地域において、ユーザーによる改造が行われた。それを見たランボルギーニのトップが、これを正式に採用。後期ディアブロではZ32のものが正式に使われた。
1992年8月、フルオープンモデルとなる「コンバーチブル」を追加。シートベルトの位置がドアよりボディに変更、エアバッグオプション、助手席パワーシートオプション等。
1993年8月、リアウイングなどを小変更。
1994年10月、マイナーチェンジ。運転席SRSエアバッグを全車標準装備としたほか、2シーター、2by2、コンバーチブルそれぞれに「バージョンS」追加。リアスポイラーおよび専用シートを装備する。また、2by2 Tバールーフには「バージョンSレカロ」を設定。「バージョンS」をベースにBBS製鍛造アルミホイール、レカロ製シート、ミラーコートTバールーフ、電子制御アクティブサウンドシステムを装備する。
1997年1月、バージョンR追加、新ボディ色パープル追加。1998年10月、フロントバンパー、リアウィングなどを変更。
2000年9月、製造終了。2002年7月の5代目(Z33型)発売までは一時的に絶版車種となった。
ライバルであったマツダRX-7も1992年に3代目の「FD3S」型を登場させるが、2002年8月をもって生産を終了した。ポルシェは944を1991年にいち早く生産を終了させて、911系だけのラインアップとなり、高価格なラグジュアリースポーツカーとしての道を歩んでいく。
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